【パチンコ/パチスロ】三店方式はどのように生まれたの?

【パチンコ/パチスロ】三店方式はどのように生まれたの?

はじめに

虚心坦懐の「浅学寡聞は損の元」、第43回。

 


 

日本では基本、賭博は法律で禁止されています。しかし、公営ギャンブル(競馬、競輪、ボートレース、宝くじなど)は特別法で認められているということで、換金が可能となっています。

そして、パチンコ・パチスロは法律上賭博ではなく、あくまで娯楽産業の一つという扱いで成り立っています。ゲームセンターなども同様に娯楽産業なので、換金している所は存在しません。まあ、昔は10円ポーカーや金箔カード自販機(→リンク)などありましたが…。

それにもかかわらず、パチンコ・パチスロでは実質的には換金をしています。今回は、それが可能となる三店方式どうして生まれたのか?また、どうして違法でないのか?について、2回に渡って解説していきたいと思います。

「三店方式」が必要となった背景~歴史~

戦後、庶民の娯楽として、パチンコは大人気となり、遊技人口は一気に増加しました。当時の景品は煙草がメインで、今と同様、日用品やお菓子などもありました。しかし、賭博は違法であったため、換金は当然NG。今のようなお金に変わる魔法の「金景品」なども存在していませんでした。

戦後ということもあり、当時、煙草の流通は国の管理下で配給制になっていて、非常に貴重な商品でした。そんな中、現代の転売人同様、パチンコで得た貴重な煙草を、どうせなら現金に換えたいという遊技客も現れました。そして、そんなニーズに答えるべく「仲介人」と呼ばれる人達が登場したのです。彼らは、遊技客から煙草を買取り、それをパチンコ店に売って儲けはじめました。

そして、そこに目を付けたのが、暴力団などの今で言うところの反社の人達でした。やがて、そういった連中が仲介人を仕切る様になり、警察も見過ごす事が出来なくなります。一方、パチンコ店も店舗周りにそういった怖い連中がうろついている事に迷惑しているところも出始めました。

当初、警察は「煙草専売法違反」を利用して規制しましたが、仲介人達は砂糖やお菓子等の別の商品に切り替え同様のことを行ったため、全く効果はありませんでした。

そこで遂に、1960年に大阪で、仲介人や暴力団に景品を買い取らせない為に『大阪府遊技業協同組合』を設立しました。ここで後の「三店方式」の元となる「大阪方式」というシステムが構築されたのです。

これが「三店方式」の始まりとなったのです。

まとめ

今回は、「三店方式」が誕生するまでの流れを解説していきました。この後に摘発された10円ポーカーはぬいぐるみなどの景品を、換金ゲーセンの金箔カード自販機は金箔景品を、それぞれ「三店方式」で換金していましたが、どちらも摘発され、今は無くなってしまいました。

因みに、虚心の祖父は女性店員に「おじさん、どこ狙って打っているの!?」と言われるほど負け組の、生粋のパチンカスでした。確実に今で言う「養分」でしたが、パチ屋でたまに勝つと塩や砂糖などの景品を持って帰り、家にお金も入れていないのに妻である祖母に売りつけていたというクズっぷり。この様子を見て育った虚心の叔父は「こうはなりたくない反面教師」と思ったのか、後に生粋の攻略系パチプロへと成長したそうです。

パチンカスのとんび、パチプロの鷹を生んじゃったかぁ~( *´艸`)笑

次回は、「三店方式」に関する法律について触れて行きたいと思います。

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